「ヴィヨンの妻」原作と映画

「ヴィヨンの妻」遅ればせながら、観てまいりました。
映画としての出来は置いておいて、
太宰作品の映画化として、どうだったのか。
ここでは、
原作小説との比較という形で、私の考えを書いていきます。

酒は飲む、女にはだらしない、カネは盗む、心中はする、
自分のことをタナに上げて、妻が男に取られるのはイヤ、
家にもろくすっぽ帰らない大谷(浅野)に、
妻のサチ(松たか子)は、なぜここまで尽くすのか。

それを二人のなれそめである「万引きでつかまって交番にいるところを、
弁償してとりなして助けてくれたから」っていうことにしちゃったのが、
なんといっても最初のアヤマチのような気がする。

サチっていう女を、監督や脚本家は理解できぬままに構築してしまった感がある。
サチは浅草で父とおでんの屋台をやっていた。
そこへふらっと飲みに寄った大谷とデキてしまって
妊娠して一緒になった。
一緒になったとはいえ、親に許しをもらったわけでもなく、
内縁の妻だった。

「内縁の妻だった」ってところ、
まーーーーったくムシ。
これは「人間失格」のヨシ子(石原さとみ)もそうだけど。

アマタ女のいる男をめぐる争いに勝つには、「妻」でいる必要がある。
一軒家を構えているか、
仕事関係の人に「奥さん」と呼ばれているか、
子どもが「父ちゃん」と彼を呼ぶか…。

自分が「妻」であると確認できる仕掛けを作らなくては
他の女との差別化ができない。
そのとき、もっとも確実かつ問答無用の印籠が「紙切れ」なのだ。

しかし、
サチに「紙切れ」はない。内縁だから。
でも、ほかの愛人とは違うところをみせたくて、
「主婦」におさまっていた。
何日も家を空けられても、カネが一銭もなくて子どもを医者に見せられなくても、
「家」を守る「主婦」でいようとした。

ところが大谷の借金(というか、初めは盗んだカネの返済)のカタに
椿屋という居酒屋で働くことになる。
客あしらいのいいのは、おでん屋での経験があるからだ。
「主婦」のサチは仮の姿で、水商売のほうが合っている。
だから
サチはすぐさま看板娘に。美人だから、だけではない。
サチも慣れない仕事じゃないから楽しい。

ポイントは、
「夫」である大谷が「椿屋のサッチャン」に会いたくて、
二日に一度は店を訪ねるようになるところだ。
そしてサチにツケて飲む。

「私の生活は、今までとはまるで違って、浮々した楽しいものになりました。
…(中略)…これまでの胸の中の重苦しい思いが、きれいに脱ぎ去られた感じでした」

脱・主婦宣言である。
「家」にしがみついて「私は彼のツマなのよ!」というのに疲れたのである。
彼のいない時間を楽しく過ごせるだけではない。
お金が稼げるだけではない。
椿屋のサッチャンでいるほうが、彼も寄ってきてくれる。
「夫」と一緒にいられる時間が長くなるのだ。

「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ」

椿屋から家まで、親子三人で帰る道々、サチは大谷に言う。
ここは映画でも使われているが、
映画だけを観ると、
こうすれば、お金の心配がないじゃない、みたいな理由しか浮かんでこない。

少なくとも、私はそうだった。
普通、奥さんが居酒屋で働くって、ものすごく決意のいることだし、
それも新聞にも電車の中吊りにも名前が躍るような有名人の妻ならなおさら。

だけど、
もともとお酒が縁で一緒になった「内縁の妻」なら、
全然話が違う。
「元に戻った」から幸せなんだ。
無理しなくなったから、幸せなんだ。

それを「女には、幸福も不幸も無いものです」と一刀両断な夫。
でもサチは、
「わからないわ、私には。でも、いつまでも私、
こんな生活をつづけて行きとうございますわ」と高らかに言い放つ。
この
すでに夫に庇護されようという気持ちの抜けたサチの強い自立心は、
映画ではうやむやにされてしまった気がした。

すべてが男目線なのである。
店の常連である男との一件も、塗り替えられている。
原作は、初めての客が家に押しかけてきて、泊めてやったら犯されたっていう、
もうあっけないものでございます。
そこを
何日も、何日も、店に通って帰りは同じ電車に乗って帰り続けた、とか、
家には大谷に連れられてしかたなく来た、とか、
キスはしたけどナニはしなかった、とか、
若い男が飲み屋のおネエさんに淡い恋をして、
おネエさんもボクがカンチガイするような風情だった、みたいな。
これ以上いうと、ネタばれになるけど、もろもろ。

妻夫木くんのイメージには合ってましたが、
これはこれで男のロマンだよね。
原作にはない辻(堤真一)の話も、これまた男のロマン。
司法試験めざしてがんばる辻を秘かに応援していたサチを
万引き事件で見捨てておきながら
弁護士先生になった今、
「思い出すのは君のこと」みたいな。
「どうして、こんなに君がホシイんだろう…」って、アナタ…。

映画の中で、大谷が
「私はサチのことがよくわからない」という場面がある。
だから怖い、とも言う。
でも、
太宰はとてもよくサチという女を理解してこの小説を書いたのだ、と
今とてもよくわかる。

サチはどうでもいい男に犯されはしたけれど、
自分の意志で大谷以外の男に抱かれるような女ではない。
自立はしているけれど、愛しているのは大谷である。
そして
昭和二十一年という、戦後の、ものがなくセーフティネットもなく、
進駐軍という名のアメリカに植民地にされていた日本で、
誰も彼もが泥棒をし悪党になって生き抜いていたという事実を、
太宰はさりげなく、そして優しく温かい目で描いているのである。

「椿屋にお酒を飲みに来ているお客さんが
ひとり残らず犯罪人ばかりだということに、気がついてまいりました。
夫などはまだまだ、優しいほうだと思うようになりました。
路を歩いている人みなが、
何か必ずうしろ暗い罪をかくしているように思われて来ました。
…(中略)…あんな上品そうな奥さんでさえ、
こんな事をたくらまなければならなくなっている世の中で、
我が身にうしろ暗いところが一つも無くて生きて行く事は、
この世の道徳には起こりえない事でしょうか」

ここを読んだとき、
昭和21年を生きていた人々は、どんなに胸のつかえが降りたことだろう。
前の年まで、「欲シカリマセン勝ツマテハ」と欲望を抑えつけられ、
生き恥をさらすくらいなら死ぬのが日本男児や大和撫子だとおしえられ、
本気でそう思ってきた人もたくさんいたのに、
そんなんじゃホントに死んじゃう敗戦国の巷にあって、
生きるため、家族のために、
泥棒もした、身も売った、人もだました、
それがいけないことと知っていても、やむにやまれず
自分のできることは、みんな何でもしていたはず。

太宰が、爆発的に読まれた背景には
こういう「赦し」があちこちに仕込まれていたことも
理由のひとつに違いない。

だからこそ、
「ここに僕のことを、人非人なんて書いていますよ」という大谷にサチが言う
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
という言葉がラストにくるのである。

フランソワ・ヴィヨンという、フランスの詩人で大泥棒の名前を
タイトルに持ってきた理由は、そこにある。

最初に大谷が椿屋から盗んだ五千円(当時大金)は、
当時の日本人一人ひとりが何がしかの罪を背負って得た、
生きるための糧の象徴なのである。

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