3ヶ月間、「河北新聞」をとり続け、
復刻新聞小説としての「パンドラの匣」を楽しんできました。

そのいきさつはこちら

正直言って、高校生のころ読んだ記憶はもはやまったく残っておらず、
今年太宰治の生誕100年を記念して映画化される
と聞いて、パラパラと手持ちの文庫をひもといても、
はっきり言って「あ、そうだった」と思ったことといえば、

「わたくしこと」というあだ名をつけられてしまった女性のエピソードのみ。

太宰の作品にいろいろ影響された私としても、
大してインパクトのある小説とはいいがたい部類でした。

今回読み直してみて、
それも毎日来る新聞小説という形だから
(きれいさっぱり忘れてしまっている)結末をページを繰って先に知ることもなく、
どうなるのだろう、
もっと言えばどのくらいの長さなんだろう、
それさえもわからないという感じの
新鮮な読書として経験できたことは、よかったと思います。

人と作品、人と時代というものは、
やはり切り離せないものだなあ、と感じたのでした。

結核という、当時は死病とも言われ、
でも、誰でもかかりうるという意味では逆に、
今よりずっとなじみのある病気の療養所という
隔離された場所で、
新しい時代に胸ふくらませる人たちのお話です。

戦時中は、
男なのに体が弱い、というだけで、どんなに肩身が狭かったろうか。
今もまた、
新しい日本を作るために、何かできたらいいという希望を持ちながら、
いつ治るのか、治らないのか、
不安な毎日を送っている人々。

でも民主主義の風は確実に吹いていて、
男女平等のこととか、アメリカ人とどう接するかのこととか、
日本らしさって何なのか、とか、真のリベラルとは何かとか、
ちょっとした会話のなかに、
けっこう政治的な話題がつまっているのです。

健康な男性は、兵隊にとられ、徴用にとられ、戦闘や空襲で死んでいった。
新たな国づくりに自分のような病気持ちが、いったいどれだけ力になれるのか。
彼らは死んでいったのに、
自分たちは笑って、恋して、生きてていいのか。

もちろん、
太宰はそんなこと、一言もいいません。
言わないけれど、そこはかとなく感じるのです。
読んでいると。
そんな済まなさというか、
それこそ「生きててすみません」的な心の痛みのようなものが、
今度の映画でも
映像の中からほの見えてくるといいな、と思います。

新しい時代への期待とともに、
もっといえば「生きている」ことの喜びとともに…。
映画「パンドラの」の公式サイトはこちら。
映画ではこの話を「青春映画」という切り口でとらえた、という話は聞いています。
今の時代にも共感できるような部分から入ると、
そういうことになるのかもしれませんね。

映画の公式サイトの予告編をのぞいてみると、
原作に忠実な描写が多いようです。設定は少し変えてあるところがあるか?
気になったのは、
竹さんが若すぎなところ。きれいすぎ。
読んだ感じでは、笠置シズ子的なイメージがあったのに…。
あと、書簡形式なところをそのまま踏襲しているので、
朗読を多用。
そこはちょっと……工夫がほしかったかなー。
というのも、
手紙の描写と主人公が見ている現実とのズレに
観客が違和感を感じないといいのだけれど。

竹さんの「若さ」も、そういうところから受ける印象なのかも。
手紙は(そして小説は)「見て」いないわけだから、
書いたままを信じるしかないですからね。

とにかく、観に行こうとは思います。

*河北新聞では「パンドラの匣」終了後、
やはり太宰の作品の「たづねびと」を短期間で掲載、
その後8/31(月)より
同じく太宰の「お伽草紙」を連載しています。

 

 

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