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「パンドラの匣」②
- 2009/7/6
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河北新聞をとるようになって、はや1カ月。
復刻連載されている太宰治の「パンドラの匣」も、
そろそろ中盤である。
毎日少しずつ読む太宰は、
これといって大きな事件も起こるはずのない
そしてどうしたって発展性のない
健康道場(療養所)での小さな人間関係の輪を、
これまた「手紙」という個人的なやりとりの中に押し込めていながら、
穏やかな語り口のなかに人生が詰まっていて、
次が読みたい!と筋ばかり追いたくなるような気持ちというより、
毎回心の芯のところがポッと熱くなるような
そんな気持ちにさせてくれる。
今日は「コスモス」と題した項の(4)。
道場の患者の一人で俳句好きな男・かっぽれが
小林一茶だの看護師のマア坊だのの句をさも自分の句のように振舞っていることに、
非常な軽蔑を覚えていた主人公が、
自分の句を盗まれたマア坊が、ちっとも気にしていないどころか
「がんばってね!」とニコニコしているのを見て、
「この人たちには、作者の名なんて、どうでもいいんだ。
みんなで力を合わせて作ったもののような気がしているのだ。
そうして、みんなで一日を楽しみあう事が出来たら、
それでいいのだ…(後略)」
と思うところ。
これって、21世紀にいう、いわゆる「著作権2.0」なんですけど!
ものかきならば、こだわらずにはいられない「著作権」について、
まだ著作権が今よりずっと守られていなかった昭和20年ごろに、
人一倍大事なことと把握しつつも、
こんな発想の転換をすることもできた人なんだな、と
改めて彼の自由さをしのぶ。
発想の転換、といえば…。
この回の「手紙」は、
こうして「俳句盗作事件」についてずっと書かれていたのだが、
その結びがふるっている。
「…(前略)…と思って、この手紙を破らずに
このまま差し上げることにしました。
僕は、流れる水だ。ことごとくの岸を撫でて流れる。
僕は、みんなを愛している。きざかね。」
唐突。
唐突だけれど、そのチェンジ・オブ・ペースにハッとする。
そうなんだ。
これが太宰の魅力の一つ。
心をわしづかみにされる。
「きざかね」はいいすぎ(笑)かもしれないけど、
「僕は流れる水だ」には、まいった。
こうして読み返せば、
価値観が崩壊し、何がどうなるかかいもく見当のつかない戦後の世の中で、
「こうでなければならない」という概念から解き放たれ、
誰の、どんな意見も受け入れられる柔軟性を身につけた、
という意味で「流れる水」なんだ、と解釈できるのだけれど、
そんなお勉強チックな解釈なんかより
「僕は流れる水だ」「みんなを愛してる」「きざかね」の
唐突にして開放的なフレーズこそが、
ブンガクなんだ、と感じるのだった。
やっていやがる。
久々に、そんなふうに、私は日記に書くわけである。
日記といっても手書きではなく、
鍵つきだったり一人きりの秘密でもなく、
Web2.0の世の中の、公開ブログというツールに移り変わっても、
太宰は不滅です。
*文中「今日」とありますが、
仙台から送ってくる関係で二、三日ずれています。
今日扱っている「コスモス(4)」は、7月3日付の河北新聞夕刊に掲載されています。
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